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先日ある人から
私が以前に書いた『空間構想事始』のなかの
第128項の『プロジェクト設計』の文章が
昨今の新国立競技場を巡るドタバタを
予見していたかのようだねと言われた。
私は原稿を書いてそれを本にしてしまうと
そのことから頭がすっかり離れてしまうので
読み返しみて
自分で言うのも変だが
あらためて建築における
設計以前の仕事の重要さについて
考えてしまった。
その頁を下に添付するので
興味をもたれた方は見ていただきたい。
・
実は
あのコンペをやるという発表があってすぐ
スペインから連絡が入った。
親友のリカルド・ボフィルから
コンペに参加してほしい
という連絡が入ったけれども
どういうコンペで
何を目指しているのかなどを調べてくれ
それによって参加するかどうかを
決めるということだった。
・
そこでいろ募集要項を見たり
建築や業界に詳しい友人に話を聞いたりなどして
自分なりの判断をした。
・
いろいろと総合してみた結果
奇妙に思ったのは
まず、あの規模の建築のコンペにしては
あまりにも設計期間が短いこと。
施設や神宮外苑を
どういう場所にしたいのかがイマイチ分からないこと。
設計与件が曖昧なこと。
応募資格の設定が権威主義的すぎること。
基本案を募集し
それとは切り離して
日本のゼネコンが基本設計や
実施設計をやる仕組になっていること。
などなどだった。
そこでリカルド・ボフィルには
次のような返事をした。
・
どう考えてもこのコンペは
オリンピックを誘致するための
最後のプレゼンテーションの場で見せる
非常に目立つ絵が欲しいだけだと思う。
つまり必ずしも
優れた建築が求められているとは思えないので
私たちは参加しない方がいいと思う。
・
それでその話はお終いになったのだが
不思議なことに日本では
今回のことに限らず
建築の設計にとって最も重要なことが
なぜか
おざなりにされることが多い。
・
重要なこととは
建築を建てようとする場所がどういう場所であり
どういう歴史や条件や可能性を持ち
そこに誰が何のために
建築をどのようなものとして
どのような方法で
社会的にどのような役割を果たすものとして
つくろうとしているのか
というようなことなのだが
そういう具体的な建築設計以前の
というより
構想や設計という仕事の指針とも根拠とも
理由とも意義ともなるそれらが明確でなければ
設計そのものが
本来はできない。
・
ところが日本ではしばしば
そのもっとも重要なことがらが
ちゃんと検討されずに
敷地の面積や
建築に必要な機能や面積や予算といった
最低条件ともいうべき具体的な条件のもとに
すぐに絵が描かれてしまう。
それはゼネコンが
いわゆる『ポンチ絵』と呼ぶもので
何となく見栄えはいいけれども
建築とは似て非なるもので
具体的にはプロジェクトを現実化させるための
だまし絵のようなものでしかないことが
しばしば起きる。
・
ひどいことに
今回の新国立競技場では
世界のそうそうたる建築家による案が
それと似たような扱いをされてしまった。
・
短い時間で
優先順位がよくわからない条件を与えられて
それでも案を考えられた方々は
本当に大変だっただろうと想像する。
世界の建築界を代表する
素晴らしい建築家の方々だったからこそ
曖昧な与件を
建築家の能力と経験と想像力とで
補完するような形でそれぞれの案にまで
まとめ上げることができたのだと思う。
どれも極めて興味深い提案で
それに関しては尊敬に値する。
・
しかし問題はその後だ。
採用された案の提案者は
ハッキリいえば
監修者になってはもらうけれども
実施設計は日本のゼネコンがやるという
コンペの条件を逆手にとってというべきか
簡単にいえば
ザハ・ハディド氏の
橋梁の構造を取り入れて
二本の巨大なキールで
スタジアムを橋げたのように吊るという案の
その肝ともいうべきコンセプトと
デザインテイストを
完全に無視してしまった。
しかしながら選んだ手前
そのカッコウだけは取り入れなければと
もとの案とは似ても似つかぬ
トンデモ案にしてしまった。
あれでは高くつくのも無理はない。
しかし私があんまりだと思うのは
なにも金額のことばかりではない。
そうしろという指示を
誰が出したのかは知らないけれども
あれではザハ・ハディド氏に失礼だし
経過を見る限り
ほかの案が選ばれていたとしても
同じようなことが起きていた危険性があり
そしてこれからもある。
・
先日安倍首相は
あのプロジェクトを
白紙にして見直すと表明したけれども
それ以降
体制が変わったという話もきかないので
このままでは
同じことが繰り返される危険性というか
恥の上塗りをした上に
結局のところ
前代未聞の早さで急いで取り壊してしまった
良き思い出のある旧国立競技場を
超える建築をつくれないという
事態さえ起きかねない。
・
考えてみると
安倍政権は
このところ同じようなことを繰り返している。
これが下衆の勘ぐりでなければよいのだが
オリンピックの
プレゼンテーションに間に合わすために
一流の建築家を急がせてパースを描かせたり
世界に向かって発表したから
案はもう変えられないとか言って
案とは似ても似つかないものに勝手に変えたり
あげくの果てに撤回したり
国会で審議する前に
アメリカの議会で
アメリカ軍への協力を約束して
それがあるからと
無理筋の安保法制を無理やり
十把一からげにして強行採決したりと
本末転倒の迷走を続けてばかりいる。
・
新国立競技場のコンペと同じように
オリンピックそのものも
プレゼンテーションの時の内容とは
ずいぶん変わってきていて
このままではオリンピックを
何のために誰のためにやるのかさえ
分らなくなってしまう。
膨大な財政赤字と
東北の復興と
危険な綱渡りをし続けている
福島の危機的な状況を抱えながら
それでもオリンピックを
税金をかけてやろうというのだから
できることならまっとうな
誰もが喜べるようなものにしていただきたい。
もちろん
日本はいま大変なので
大変申しわけないけれどもできませんと
オリンピックを辞退する選択肢だって
まだ残されてはいる。
まだ残されてはいる。
スポーツ選手たちには非情かもしれないけれども。
ただ、止めることで浮いたお金を
スポーツ振興や選手の育成にまわしたり
スポーツを文化にすることに用いたり
別の場所でのオリンピックで
気持ちよく活躍できるような
環境を整えることにつかうことだってできる。
・
スポーツ振興や選手の育成にまわしたり
スポーツを文化にすることに用いたり
別の場所でのオリンピックで
気持ちよく活躍できるような
環境を整えることにつかうことだってできる。
・
建築は
ちゃんと手順を踏んで
ちゃんと手順を踏んで
丁寧につくられてはじめて
その空間を活かす形で
目的に沿った運営がおこなわれる場所となり
新たな幸せを育むことにつながる。
入れる魂が宿らない仏は
ただの物体でしかない。
新たな幸せを育むことにつながる。
入れる魂が宿らない仏は
ただの物体でしかない。
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