2018年9月14日金曜日

天災と人災(前編)


by Esteban Sanz

天災と人災
あるいは現在の日本という国の特殊性について
前編:概況

災害が
それもこれまでにはなかったような過酷な災害が続きます。
その度にTVなどから凄まじい被害状況や
肉親を亡くした人や過酷な状況を耐え忍ぶ人々の映像が
繰り返し繰り返し流され続けます。
天災の恐ろしさと日本人の我慢強さばかりが強調されます。
けれど、今日の私たちの生活空間は昔のように
自然と密着しただけのものではありません。
私たちは今や
電気や水道やガスやネットや道路や鉄道や店舗などの
人によって構築された社会インフラの中で暮らしています。
暮らしの大部分がすでに
人為的な人工物によって支えられている以上
地震や台風などによって起きた災害は
もはや単なる天災としてではなく、人災として
つまりは社会インフラの設計と
その建設や維持の良し悪しと共に語られるべきです。
したがってTVなどのマスコミの仕事は

被災した人の表情や悲惨な状況の映像を
繰り返し流すことにあるのではなく
むしろ天災によって弱点が露わになったインフラを
誰がいつ何を考えて設計したのか。
それを誰がいつどこで何を根拠に
どのようなプロセスを経て認可し採用したのか。
その建設を誰がいつどのように行うかを
誰がどこでどのようなプロセスを経て決定したのか。
そしてそれは誰の監理のもとどのように施工されたのか。
同じようにしてつくられた危険なインフラは
ほかにはないのか。
さらにはつくられたものの欠点や経年変化への
対処や変更の必要性などが
誰によってどのように検討され
どのようにプログラム化されているのか。
その実行を誰がいつどこで
どのように実行に移されたのか。
(あるいはされなかったのか)
また過去の類似の災害をどのように検証し
そこから未来に活かすべきどんな指針を得たのか。
(あるいは得なかったのか)
そのようなことを追求し事実を共有し、それらを
現在から未来に活かすべき知恵集めに寄与することは
メディアの重要な仕事です。
また政府や行政の仕事は
最低限の応急手当てを行い
必要な救助や復旧をすることだけにあるのではなく
国が構築した社会インフラの何が被害を拡大し
それはどこに問題があったのか。
その設計や建設がどこで誰によって何を根拠に
どのようなヴィジョンと設計のもとになされたのか。
責任の所在はどこにあるのか。
それを遡って検証する書類はどのようにつくられ
どこにどのように保管されどう役立てられているのか。
(あるいはいないのか)
あるいは何が被害を減少させることに寄与したか。
そこにはどんな可能性があるのか。
それらをこれから社会インフラの構築にどのように
どう活かしていくのか。
そのことを国民に向かって
人々が希望が持てる具体策とともに
説明する義務が政府にはあります。
なぜなら現在の社会インフラを構築し建設を指導したのは
またこれからもそれを担うのは
国家や行政だからです。
連続して起きたこの間の
災害の中で露わになった社会インフラの不備を
ヴィジョンアーキテクトの立場から見つめれば
極めて重大なものだけで
以下のような問題が挙げられます。

現代社会の最重要基本エネルギーである
電気関係のインフラにおいて
なぜすでに過去のものとなった近代初期の社会インフラ構築概念が
いまだに採用されたままなのか。
一箇所の巨大プラントがストップすれば
北海道全土が停電するような
すなわち一極集中、巨大生産・消費システムを
(膨大な送電ロスを無視して)
なぜ広大な北海道に導入したのか。
それは誰の指示を受けて誰が設計し
何を根拠に実行されたのか。
それはなぜ改善されてこなかったのか。
さらに北海道の広大な土地と自然を活かした
風力、太陽光、地熱、水力等の多様な電気エネルギー生産
小規模地域分散&ネットワークなどに向かうべき状況の中で
なぜそれらは促進されてこなかったのか。
加えて、どのような事情を踏まえて
インターネットシステムが構築されたのか
電源に依存するコンピューターや
スマートフォンに対応させたインフラのあり方
分散能という生命的な方法などが
全く考えられていないのはなぜか。

泊原発に関して
外部電源の喪失に対応する非常用電源は
最低二箇所必要であるとされる世界の常識の中で
巨大システムのウイークポイントである
ブラックアウトが十分想定できたにもかかわらず
なぜ非常用電源が一箇所にしかないのか。
そもそも世界有数の地震国火山国で
福島の事故の後もなお
未だに原発をベースロード電源と位置付ける愚かさが
なぜまかり通っているのか。

厚真町の土砂崩れに関して
ハザードマップではすでに
土石流の危険性が指摘されていたが
それに対して行政はその地域住民に対して
どのような説明や指導や指示をしていたのか。
(あるいはしていなかったのか)

札幌市の液状化について
該当部分は沢筋を埋め立てて造成したもののようだが
誰がなぜそのようなことをしたのか
そのような危険なことをすることを
誰がいつどのような根拠のもとに認可したのか。

関西国際空港の被害に関して
一般的な建築物でさえ2方向避難の確保が必須なのに
一本の橋だけでなぜ国際空港を成立させたのか。
また浸水したA滑走路より
B滑走路は海抜が高くなっていることや
A滑走路に防波堤が設置されているところを見れば
A滑走路が極めて脆弱な状態にあることは
認識されていたはずなのに
なぜ改善されなかったのか。
そもそも何を根拠にあのような設計がなされ
それがどうしてどういうプロセスを経て
計画され設計され認可され建設されたのか。

他にもいろいろありますけれども深刻なのは
過去の災害
とりわけ東日本大震災や
そこでの人災である福島第一原発の事故の教訓などが
ほとんど活かされていないということです。
問題はどうしてなのか
どうして社会インフラの不備が
自然災害があるたびに露呈するのか
同じようなことがどうして起こり続けるのか
国家的なインフラ建設プロジェクト
国策的な巨大プロジェクトほど脆いのは
なぜなのかということです。
実はそこには日本の近代に特有の
極めて根の深い特殊な事情があると考えられます。
これに関して説明をしますと
非常に長くなってしまいますので
まず極めて大雑把に
その根本的な問題を指摘します。
最大の問題は
日本という国の近代化の過程の中で
本質的に深く考えることなく性急に
江戸の末期から明治にかけて
先進諸外国の文明のパワーに圧倒されて
長い歴史の中で育みそれなりに成熟させて来た
日本の文化風土に適した
国家の運営の方法や仕組みを
打ち棄てるようにして
それとは対極にある西欧的な価値観を背景につくられた
近代国家とその運営・経営方法を
和魂洋才の掛け声のもとに強引に
その意味や背景を深く考えることなく
ほとんど問答無用の形で
政府主導で導入したことです。
このことが招いた弊害は
詳しくは後編で詳しく述べますが
一つは
近代国家の基本的なシステムやツールを
その問題点を検証することなく導入し
それを無邪気に推し進めたことです。
その結果、産業化は進みましたけれども
近代国家が内包する負の側面である覇権主義と無限成長や
それを支える国力、軍事力に対する信奉を
過度に肥大させてしまいました。
それがロシアや満州やアジアへの
侵略戦争につながりました。
一つは
日本が歴史的に育んで来た
文化や精神風土とは異質の西欧文明や文化
あるいは先進技術や方法を
個別に取り入れることを善とし
両者の問題点や矛盾点や可能性を
深く検証することを怠ったまま近代化を進めたために
その過程の中で
思考停止や想像力の欠如や論理性の無視が常態化し
さらには総合的社会空間デザイン力などが
育ちにくい社会を作ってしまったことです。
つまり日本の近代化は
大きな構造的矛盾を内在化させたばかりか
和魂さえも見失うという結果を招いて現在に至っています。
この矛盾が、近代国家というモデルがすでに
時代遅れになって来ている現在
様々な弊害となって噴出してきているのが
現在の日本の姿です。
冒頭に述べたような諸問題は
その構造的な矛盾の
現象的な現れに過ぎません。
このことをちゃんと説明しようと思えば
さらに長くなってしまいますので
とりあえずこれくらいにすることにします。
ご興味を持たれた方は
後編をご覧になっていただければ幸いです。