byEsteban Sanz
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天災と人災
あるいは現在の日本という国の特殊性について
後編:基本的背景
(前編より続く)
・
日本は長い間
村落共同体的な社会を維持してきました。
豊かな自然の恵を背景に
比較的平和に暮らして来たとされる
文字を持たない長い長い縄文時代や
アイヌ文化のあと
大和朝廷の成立によって
日本全体の社会状況がある程度安定して以降
周囲を海に守られていたため
海外の異民族の侵略という恐怖に晒されることなく
米本位制とでもいうべき経済の仕組みと
それを持続的に管理する官僚制のもとで
限定された地域で
同じような価値観を持つ人々が共に生きるという
生活スタイルが続けられてきました。
重要なことには村人が総出で行動し
重要なのは意思の一致であり
長などの意見に同調することであり
勝手な行動をするものは
和を乱し村を壊すものとして村八分にされました。
つまり良くも悪くも共同体の中に
全会一致の原則が
暗黙のうちに成立していました。
・
そこでは神もまた
極めて曖昧ながら、しかし身近な存在でした
文字を持たなかった文化を受け継ぐ精神風土の中では
神の価値観を記した聖典などはなく
神はあらゆる自然の中に
あるいは具体的には
柏手を打ったりお供えをしたりといった儀礼の中に
あるいは普段の暮らしの
何気ない振る舞いの中に存在していました。
・
つまり神は自然と同じように
太古から人々と共にあった何かであり
無意識のうちにも敬うべきものとして
習慣的に生活の中にあり
いざとなれば頼むべき何かとして
神社の佇まいや形式や祭事や祈願の中に
存在し続けてきました。
つまり自然の恵みであれ
先祖の知恵であれなんであれ
大切なことの多くはすでに存在していて
それをそのまま大切なこととして継承していくこと
そのこと自体が重要とされてきました。
それが日本個有の文化の形でした。
・
日本とはそんな村落共同体の集合体であり
そこに漠然と、しかし動かしがたいものとしてある
価値観や美意識や禁忌
さらには
共同体としての和を良しとする共通調和感覚と
その象徴としての天皇制という制度によって
国家も維持されて来ました。
つまり日本は自然の恵と
漠然とした共通認識と共にある国家でした。
・
四方を
寒流と暖流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれた
温暖な位置にあって
水が豊かで山が多く
海の幸、山の幸、里の幸に恵まれた日本の自然は
神が怒りさえしなければ豊かでした。
山の神が火を吹かなければ
海の神が荒れ狂わなければ
地の神が怒って大地を揺るがさなければ
水の神が怒って田畑を流さなければ
風の神が怒って吹き荒れなければ
疫病神が取り憑かなければ
陽が強すぎなければ、弱すぎなければ
なんとか食べていける
豊かな自然に恵まれた国でした。
神々が怒りさえしなければ
景色は美しく、水は美味しく
四季の豊かな食べ物に恵まれていました。
神は草葉の陰にも空の上にも、どこにでもいて
怒りさえしなければ優しい何かでした。
怒ったら怖い山の神のおかげで
温泉だっていたるところにありました。
・
江戸時代のように
道路や水路や価値交換システムを含めた
広域の社会インフラがより整備されても
村落共同体の集合体を
米本位の経済的な仕組みによって統治するという
基本的な仕組みは変わりませんでした。
つまり封建的な価値観や制度そのものは
それほど変わりませんでした。
変わる必要がなかったからです。
江戸幕府はそれをより明確化させ
米本位制による持続経済社会
つまりは現状維持を原則とする社会を作り上げました。
統治機構としての幕府はありましたけれども
大まかな文化風土の違いによって分けられる
藩というくくりのもとで
地域もまた独自性を持つ地域として存在し得ました。
それというのも風土的な違いはあったにせよ
本質的な価値観や技術には
それほど大きな違いはなかったからです。
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しかし近代に入って状況が一変します。
西欧の文化と社会の中から生まれた
近代国家という新たな概念と方法によって
社会を稼働させるシステムが巨大な台風のように
世界を席巻し始めたからです。
・
これは大雑把にいえば
二つの全く異なるエンジンを合体させて
それにターボチャージャーをかけて
国家や経済を稼働させ運営し推進するシステム
あるいは前輪と後輪が
全く異なる原理とパワーで稼働する
四輪駆動のパワフルマシーンでした。
・
エンジンの一つは産業革命に端を発する
産業資本主義というハードなパワーエンジンです。
すなわち
石炭や石油などの化石燃料を燃やして得られる
熱エネルギーを利用して稼働する
人力や家畜の力とは桁外れの機械力によって
大量に物を生産し
大量に世界中に売りまくるシステムです。
・
これは平たくいえば
異なる民族や歴史からなる無数の都市国家が
しのぎを削って争い合って手に入れた
西欧の先進国の先進的な技術力や軍事力という背景と
植民地などの広域領土としての後進国の存在
つまり穀物や原料や労働力の供給元と生産品の販売先
ちまりは植民地的な存在を前提にしたシステムであり
儲けたお金をさらに常に技術の進歩や軍備や
生産規模の過剰な拡大につなげる仕組み
もとをたどれば
他国を制圧し領有し
余剰な富を獲得することから生じた
ヨーロッパの古くからの階級差別社会
すなわち貴族階級と奴隷の存在によって機能し
次々に他者を併合していく
そしてローマ帝国がそうであったように
豊かな都市空間や文化
そして圧倒的な技術力や文明力で
被支配国を圧倒し、あるいは魅了して
無限拡大を指向するシステムです。
・
これは日本のように
価値観が全く異なる他民族の奴隷になる恐怖を持たず
豊かな自然を背景にした持続型の
現状維持を旨とする社会システム
つまり西欧の近代の
進歩や拡大や格差を是とする価値観やシステムの
全く対極にあります。
・
しかし日本は幕末から明治にかけて
西欧文明のパワーに圧倒されて
和魂洋才の掛け声のもと
西欧の技術やシステムを日本の文化風土や
それを成立させた背景や歴史とは無関係に
とにもかくにも取り入れることに
産業資本主義社会への転換に邁進しました。
・
この本質的構造的なギャップを日本人は
勤勉さや器用さや意思一致の習慣などの全てを駆使して
終身雇用的な会社システムや
緩衝帯のような行政という国家機関を作ることで
なんとか和らげ
会社が一国一城であるような
また政府が幕府であるような
総会社員社会、挙国一致体制社会を作り上げるという
不思議な裏技で帳尻を合わせてきました。
しかし日本の社会と経済の仕組みはもともとは
西欧が構築した近代の産業資本主義的なシステムとは
相反するものでした。
・
近代国家を稼働させるもう一つのエンジンは
国民国家という概念(コンセプト)です。
具体的には三権分立と議会制民主主義制度によって
産業資本主義を自国民のために制御し
人間と社会とはどうあるべきかという
理念を模索する中から生まれた
国家運営上のソフトなシステムです。
これは国民を主権者とするという
人類史始まって以来の
画期的なシステムでした。
・
この背景には西欧が
もとをたどれば過酷な荒地で生まれた
厳格な一神教であるユダヤ教
それに人間愛を加味したキリスト教を
価値観の中心持つ社会であることが
深く関係しています。
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一神教というのは
善悪の全てを唯一無二の神が決めるということです。
何が善であり悪であるかは神が決めることであり
しかもそれに関しては
旧約聖書に事細かに書いてあります。
またそこに人間愛という要素を加味して世界化した
新約聖書にわかりやすく書いてあります。
つまり善悪は漠然としたものとしてあるのではなく
それを計る物差となる書物が
確固として存在し続けてきたということです。
聖典を持たない日本の神道とは
全く異なります。
・
ちゃんと説明をするとさらに長くなりますので
かなりはしょりますが
西欧社会は基本的には
この聖書の価値観の上に築かれています。
つまり聖書の価値観を象徴する教会が
具体的にはその長である司祭や教皇が
強大な権威と権力を持っていました。
大きかろうと小さかろうと
街の中心には教会があり広場があり
そこでは教区を護る騎士を成り立ちとする王もまた
教会の権威とともに長い間
強固な存在として君臨していました。
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しかし考えてみれば
キリスト教的な価値観の中では
人間は神によってつくられた存在ですし
何が良いか悪いかを神に教えてもらう存在なのですから
逆に言えば
神や神の子であるイエスのもとでは
一人一人の人間は
神の言いつけを守る限りにおいて
平等であるはずです。
いろんなことを知っていたり知らなかったり
腕力が強かったり弱かったりしても
お金を持っていたりいなかったりしたとしても
そんな人間社会の細かな違いなど
神の存在に比べれば無いも同然です。
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にもかかわらず西欧社会では
長い間にわたって教会や王や貴族が
神の威光や富や武力を背景に
あらゆるものを上流階級や教会が独占してきました。
産業革命が進行するにつれて登場した
新たな階層としてのお金持ち
いわゆる中産階級(プティブルジョア)が
不満を持ち始めるのも当然です。
同時に、人間とは何か
神に愛された人間が仲良く暮らしていくための
理想的な仕組みはないのかと考える
いわゆる啓蒙主義と呼ばれる思想と
それに基づいた社会を
構築しようとする人たちも現れます。
これらの人たちと
それまで歴史的に虐げられてきた
下層階級や労働者が手に手を組んで
それぞれの細かな思惑や立場や損得の違いを超えて
王や教会が牛耳る社会を根本から変えようとしたのが
いわゆるフランス革命です。
・
呉越同舟的な集まりだったとはいえ
彼らはだからこそ皆が納得できる
自由、平等、友愛の旗を掲げて
選挙というものに基づく国会をつくり
そこでの議決によって
国を運営することを始めました。
初期段階では勢い余って
王と王妃をギロチンにかけたりもしました。
それを煽った党首も
やがて同じ目にあったりしましたけれど
とにもかくにもこうして
人は皆それぞれ意見も立場も違う
ということを前提としつつ
そのような様々な人々が寄り集まって
意見を交わし合い調整し合いながら
社会を自らが運営するという
近代国家の基本的構造がつくられました。
それは国民国家という概念に基づくもので
そのコンセプトはおよそ以下のようなものです。
・
国家は主権者である国民が治める。
国民がどのような国を望むかを国民は憲法に表す。
国民は自分たちの代弁者である議員を選挙で選ぶ。
議員は国会で憲法に基づいて法律を作る。
国民は国家の構成員として法を守り国家に税金を払う。
国家は税金を国民のために分配する。
国民は人間として生きる権利を有する。
国民は国家との関係において平等である。
国民は法を犯さない限り自由である。
国民は友人同士である。
国会や行政や国民が法や憲法を犯さないよう
司法を設けて監視する。
行政は憲法や法に基づいて
国民の日々の生活のために働く。
・
近代国家はこうして
産業資本主義と国民国家という
二つの全く異なるエンジンを連結して稼働し始めました。
突き詰めれば産業資本主義は損得によって回り
国民国家は善悪によって回ります。
つまり国家は産業によって富を増やし
政府はそれを
国民に平等に還元する
という建前のもとに運営される
西欧が発明した国家運営ステムが近代国家です。
・
明治以降に導入された
この近代国家の基本コンセプトはしかし
それまでの日本の文化風土や仕組みとは
全く異なるものでした。
・
無限拡大を目指す産業資本主義は
基本的に現状維持の持続社会である日本とは
全く異なる原理とメカニズムを持っています。
・
議論を重ねて採決によって物事を決する
議会制民主主義の方法は
人がそれぞれ意見が違うということを前提としていて
だから多数決をしたりするのですが
同時に
神が認める真理というものがどこかにあるはずであり
みんなで知恵を合わせてそれに近づこう
神によってつくられた人間という存在に
恥じないような結論を
知恵を集めれば出すことができるはずだという
理念に基づいています。
これは意見の一致を曖昧に指向し
原則として全員一致を旨とする
日本の共同体の運営方法とは全く異なります。
・
為すべきことを文書で表すという方法も
聖典や言葉による明確な基準を持たず
前例や慣習を重んじる日本的な感覚とは異なります。
また神による絶対的な善悪の基準という価値観を持つ西欧では
国民国家という概念における議員や裁判官は
基本的に王や教会に代わって登場させた
新たな神というべき国民国家という理想の代弁者
ともいうべき役割を持ちました。
それは専制君主や教会の権威や権力を転倒させて成立した
国民国家の矜恃ともいうべき意識でした。
・
ですから19世紀以降
国の主人公である国民、すなわち
大衆の代弁者的役割を担ったマスメディアは
常に国家を監視し
政治家が悪事を行えばそれを攻撃し
風刺画や批判を新聞などの
定期刊行物(ジャーナル)に掲載して
権力者や資本家や聖職者の横暴への
闘いを繰り広げました。
それが
ペンは剣(権力)より強しという自負を掲げた
あるいは神に成り代わって社会正義を貫くという
使命を自らに任じたジャーナリズムです。
・
ところが日本では
こうした近代国家を成立させた
歴史的背景やそこで構築された仕組の意味とは
ほとんど関係ない形で一切が
無理やり接木をするように
もともと民主主義という概念を
自らが構築したわけでもない日本社会に
強引に輸入され一気に制度的に導入されました。
・
その根本的な矛盾が
未だに根強く尾を引いて
日本の政治や産業やマスメディア、そしてその関係を
奇妙なものにしています。
・
マスメディアが国家の代弁機関となったり
政府が幕府のように権力を振りかざしたりするのは
制度だけを導入したという
構造的弊害の一つの表れです。
・
またかつては身近な存在であり
日々の祭事や儀礼や行事や習慣と共にあった神や仏は
人々の暮らしが自然から遠ざかり
近代化された日常の中では
存在しないも同然となり
かろうじて冠婚葬祭の際のお飾りのようものに
なってしまいました。
つまり日本社会は神や仏という
精神的なタガをなくし近代化以降
かつての美意識を徐々に
失ってしまったということです
・
それに加えて現在
西欧型の近代国家の限界が露呈するにつれて
つまり近代的な方法が有効性を失い始めるにつれて
歴史を踏まえてその先を模索するのではなく
むしろ近代以前の日本的な何かへと
歴史の針をやみくもに逆に回して戻ろう
とでもするかのような
無謀な奇妙さが日本に蔓延し始めています。
その歴史や過程を無視した異常さと奇妙さが
ほとんど意識されないまま
ダブルで強力に存在し始めているのが
現在の日本です。
・
冒頭で述べた3.11以降の
そして最近の一連の災害で露呈した
奇妙さ蒙昧さ論理性のなさ、あるいは理不尽さは
こうした日本の歴史的文化的社会的特殊事情と
深く関係しています。
・
今世界は極めて困難な状況に直面しています。
それは近代国家を稼働させてきた
2つの基本的なエンジンが限界を越え
様々な弊害を生じさせていることに加え
コンピューターの出現により
文明の進歩と文化の衰退が同時に進行するという
人類史始まって以来の
前代未聞の異常事態が進行し
それを超える方法論を
世界が未だに見出せない状況にあるからです。
・
近代国家は
大雑把に言えば
良くも悪くも国家という単位を重視し
大量生産大量消費の拡大再生産による
経済力と国力の拡大を国家間で競い合う仕組でした。
だからこそ二度の世界大戦が起きました。
そこでは政治においても産業においても
ピラミッド的(軍隊的)な命令系統
つまり一極集中、中央集権という
稼働形態が取られました。
・
しかしこの形態は
端的に言えば企業活動の多国籍化、グローバル化と
経済規模の拡大と金本位制の断念
為替の連動とコンピューターの出現に伴う
金融資本主義の暴走によって
崩壊し始めました。
・
その結果
スタート時点では富の再配分を担うべき存在だった国家
つまりは基本的人権と善悪を指針として
国民の平等な福祉の実現を目指して
国家を運営するはずだった政治が
損得を求める産業や金融資本主義に
飲み込まれてしまうという事態が進行し
巨大化した国家の仕組みそのものを維持するために
税制などにおいて国民よりも世界企業を重視し
政府が国民から収奪する流れが
常態化してしまいました。
もちろんそのことによって
貧富の格差の拡大と福祉の無視
そして情報の独占化と
集中管理・監視社会化が世界中で進んでいます
・
この流れと
近代以前への先祖返りとが合体してしまい
近代が生み出した成果や
近代が求めた人間主義や
国民国家の概念さえも無視して
江戸末期に強烈なショックを受けて捨ててきた
日本という共同体幻想を無前提に評価しつつ
成長・拡大を実現した時期の近代という
今や再現不可能な過去の記憶にすがって
トラックを逆向きに走ろうとしているのが
今の日本です。
冒頭に述べたようなことが起きているのは
このようなことと深く関係しています。
・
ある段階では有効だったかもしれない
近代特有の方法論
すなわち
一極集中、重厚長大
無限成長、パワー重視
大量生産大量消費
巨大公共事業により経済の牽引
過度な分業化と均一化
偏狭な目的の設定
狭い視野での短期的な利益重視
単年度決算
政党重視の議会運営
等々は
もはや時代遅れの有効性を失った方法です。
・
全てを一気に刷新することが難しければ
せめて災害によって露呈した欠陥を
総合的にスタディして
同じことを繰り返さないよう
長期的で広い視野と展望に基づく
インフラの整備、再創造が急務です。
・
加えて
近代によって明らかになったことを踏まえ
また歴史や世界の現実を踏まえて
未来を創造するために有効な総合的ヴィジョンと
それを実現するための
生命的なマスタープランを描くことが急務です。
・
国家や行政の役割は
それを国民の暮らし
その安らぎや喜びのために
行うことに他なりません。
・
しかしレースで言えば
何周もの周回遅れとなりながら
それに気づかず、あろうことか
コースを逆に走り始めてしまっているのが
日本の国の現状です。
そのことの弊害があらゆる局面で
噴出し始めています。
いま前方を見なければ
可能性のある方向に舵を切らなければ
かつて巨神と名付けられた
タイタニック号のように氷山に激突して
日本国は海の底に沈んでしまいかねません。