2009年12月27日日曜日

エステバン・サンツ  Esteban Sanz

Barco de Shiny by Esteban Sanz





画家であり哲学者であり映画監督であり
そしてなによりビートニックだった
エステバン・サンツ(1919〜1994)は
まさに孤高の天才としか言いようのない人物だった。
若くして絵画の才能を認められ
12歳で美術専門学校の校長の助手を務め
23の若さでマドリッド大学で
史上最年少の美学と哲学のプロフェッサーとなり
詩的作家論『レオナルド・ダ・ヴィンチ』を出版して話題となるが
演劇や当時の最先端メディアだったラジオに興味を持ち
大学を辞職してラジオの脚本家として活躍した。
またアカデミーで油絵の個展を開くなど
マドリッドの文化人たちからは
「全てにおいて卓抜した才能の持ち主」と評価され
文化シーンの寵児となったにもかかわらず
アルゼンチンの富豪の招待で
ブエノスアイレスで油絵の個展が開催されることになり
それを機に活動の舞台を南米に移す。
そこで出会ったスペインの20世紀を代表する詩人の一人で
友人のピカソとともに
フランコ独裁政権に反旗を翻して母国を離れていた
ラファエル・アルベルティの勧めで
当時、全くの草創期だったテレビの仕事を始める。
エステバンが脚本や美術を担当し自らが出演した
1時間のワイドショーはアルゼンチンで人気番組となり
彼は一躍スターとなったが
束縛されることが何より嫌いな彼は
人気絶頂の時にアマゾンの奥地にドロップアウトする。
その後コロンビアで映画監督となり3本の映画を監督主演するなど
細かな経緯を書けばキリがないので省略するが
やがてマジョルカ島で
アニマルズの連中と知りあったのをきっかけに
ロックを中心とする当時の若者たちの
文化ムーヴメントのまっただ中に入る。
その頃から画風も一変し
アニマルズがロンドンで開いたライブハウスに
サイケデリックな絵を描いたりするが
やがてイビサ島に移り住み
ビートニック画家として
ヒップスター達のグルー的な存在となった。
私が彼と知りあったのもイビサ島だが
知りあってからは毎日のように会って話すことになり
いつのまにか私と私の家族は晩年の彼にとって最も親しい存在として
生活を共にするようになった。
彼の家にはロック・ムーヴメントのピークの時の音楽が揃っていて
知りあった頃、20歳も年上であるにも関わらず
ロックミュージックに関して
あまりにも話が合うことに驚いたのを覚えている。
彼の絵も驚くべきもので、まさしく天才だと思ったが
その頃エステバンはほとんど絵を描いておらず
みかねた私がある日「絵を描いて欲しい」と言うと
「この何年か、そんなことを私に言ったのはお前だけだ」と彼は言い
そして翌日「お前に見せたいものがある」と言って見せてくれたのが
ここに載せた一枚の絵だ。
「お前が描けと言ったからひさしぶりに絵を描いた」
ニコニコしながら嬉しそうに言った彼の表情を
私は今もはっきり覚えている。
彼は私の敬愛するマエストロの一人だ。
絵や音楽や詩は何のためにあるのだろう。
人はどうして
ここにはないものを想い描き
あるいはどこかにはあると感じるものを
追い求めるのだろう。
いまここにある確かさとは違うもう一つの確かさ。
もしかしたらアートは
そんな確かさや、そうではない世界
そうではない自分への
掛け橋なのかもしれないとも想う。
たとえそれが時に
雨上がりの空に一瞬のあいだだけ輝く
虹のように儚いものに映ったとしてもなお……。