2011年4月2日土曜日

照明ということ


Photo by Elia Taniguchi
私たちの国は長い間にわたって
豊かさということの意味を取り違えてきたように思う。
現在、関東でも計画停電というものが行われ
まるでお上のおふれでも見るかのように
毎日毎日、計画停電が実行されるかどうかに
神経をすり減らしている。
しかし、ここまで煌々と電気を灯すことが、電気を費うことが
はたして本当に必要なことだったのかどうか……。
東京の地下鉄が、通路やホームを
節電ということなのだろう、若干、照明を落していた。
照明というものは
本来は明かかるくない場所に人為的に明るさをもたらすものだから
空間を効果的に演出してこそ意味があるが
日本の公共空間や商業空間やオフィスの照明は
基本的に照度を基準に
隅々までを、とにかく明るく照らすという設計であるために
見れば、どうやらすべての照明が同じラインで結ばれていて
一律に点灯するようになっているらしく
作業員が蛍光灯をところどころ抜き取ることで対処していた。
したがってどうしても
いかにも非常時という感じの雰囲気になるのは否めない。
全体的には二割程度の照明を落しているように見えたが
しかし、明るさに関しては全く問題がなく
パリやロンドンの地下鉄は、それよりもはるかに暗いと思えた。
個人的には、半分くらいの照明を落しても
なんの問題もないように思える。
蛍光灯はほとんどが二列で連続して取り付けられていて
東京をはじめとするメガポリスで
いかにも過剰な照明が日常的になされていたことに
あらためてぼう然とし
以前、長い間住んでいたスペインから帰ってきた時に感じた
白々とした違和感を思い出した。
深夜もなお電気をともし続けるオフィスビル。
昼の明るさと競おうとでもするかのような商業施設……。
もしかしたら私たちの国は
幕末に突然、近代文明というパワーに直面した後遺症を
もしかしたら、明治、大正、昭和を経て
平成という年号に入ってもなお持ち続けていたのかもしれない。
電気や電灯がまるで文明開化の証であるかのように
私たちは居住空間や仕事場をはじめ
都市空間のあらゆる場所を
陽が暮れてもなお、これでもかというほど
こうこうと電気で明るくすることに奔走してきた。
人間という動物にとって昼は夜とは違う。
昼には昼の、そして夜には夜の暮らしのありようがあったはずだが
そんなことはどこへやら
夜さえも、昼間だけが人間の時間だとでも言い張るかのように
いたるところに電気を灯し続けてきた。
何も隅々まで、これ見よがしに照らす必要などないにもかかわらず。
私たちの街が隅々まで美しいものであふれているわけでは
決してないにもかかわらず。
夜の適度な暗さに、そしてほのかに灯るあかりに
私たちの体が、どこかくつろぐ体のしくみを
何万年にもわたって
育ててきたにもかかわらず……。
ヨーロッパの古い街の妙に心地よい夜の暗さ。
気持ちの良いレストランの落ち着いた照明のやさしさ。
バリ島の、闇の中に灯る
大切な命の灯火のようなあかり。
人間の夜の空間にとって
光は特別な空間表現のための言語であり
どこもかしこも均一で過剰な明るさは
むしろ人の心と体を疲れさせる。
そして、夜の空間の美しい佇まいを破壊する。
そしてさらに不幸なことは
私たちの国では電力が
まるで天から定められたかのように縄張りを誇示する
限られた独占企業の専売商品であることだ。
私たちは、野菜の産地を選ぶように
あるいはさまざまな商品の出来不出来を見定めて選ぶようには
電気という商品を購入するにあたって
それを買う相手を選ぶことができない。
野菜のように、それが有機栽培によるものかどうかを
あるいは、肉や魚やかまぼこや壁紙や家具や道具選ぶようには
その産地や作り手や材料や性能を選ぶことができない。
そして電気は、近代というシステムの中では
消費地から遠く離れたところでつくられ
一極集中の都市優先という事情のもと
長大な送電線で送ることによる膨大なロスを無視して販売される。
それが水力によるものであれ風力によるものであれ
太陽の光によるものであれ、火力によるものであれなんであれ
一般には一緒くたにされて販売される。
そして原子力による電気は
それが核融合という過剰で爆発的な一触即発の発生熱を
電気的をつかって必死に冷却するという
原理的な矛盾を抱えたシステムでつくり続けられている。
このような構造的なデメリットや
使用済み燃料の処理や老朽化した施設そのものの解体にも
膨大なリスクとコストがかかるという事実を無視して
さらには、重要が少ないからといって
それに対応して調整するということもできないシステムによって
そして、ひとたび事故が起きれば
取り返しのつかない致命的な危険や障害を
長きにわたって人間や自然に与え続けるという
リスクや理不尽を度外視したかたちで生産される。
そしてそれらのコストがすべて、実は価格に反映されている。
どうしてこんな、人間の健康や安全や安心という観点から見れば
ほとんどクレイジーなことが続けられてきたのか……。
もちろんそれには、冷戦という愚かな対立の産物である
武器としての原子力による抑止力などという愚かな思惑もまた
おそらく、そのことに関与していたに違いない。
そして私たちは、こうした現実に対して
好むと好まざるとにかかわらず
そして無意識的にせよ無意識的にせよ
見ざる言わざる聞かざるを決め込んできた。
電気という商品の供給側から見れば
見せず語らず知らせずという欺瞞を押し通してきた。
こうしたことは、近代というシステムが
すでに限界を超えた矛盾を露呈してしまっている今
そして、安全と安心の上に立った
継続的で人間的な喜びを創るという
時代的な課題に全力をあげて取り組まざるを得ない瀬戸際まで
私たちの地球と文明が追いつめられてしまった今
私たちに可能な限りの知恵と力を集めて
そのことに取り組むことが必要だと
あらためて思う。