2011年6月4日土曜日

この国を蝕む構造的病理


日本は今
いくつもの構造的病理にむしばなれながら
自らが致命的な状態にあることすら
ちゃんと認識できないように見える。
少なくとも、権力を行使できる立場にある
多くの政治家や官僚や経済人たちにおいては……。
構造的病理とは、例えば
江戸時代、あるいは平安の昔から
途絶えることなく維持され続けてきた官僚制度。
例えば
革命という根源的な刷新を経ることなく
まるで接ぎ木をするかのように
封建制の上に
無前提に取り入れられてしまった
西洋の発明である近代
そうしてつくりだされた奇妙な産業国家社会。
例えば
所有という概念の本質をつきつめることなく
幕府的な権力構造と
近代的な中央集権のシステムとを混同させるなかで
官僚組織と財閥機構
そして藩主を含む旧制度の長たちによって
山分けでもするかのように占有されてしまった
重要な土地。
廃藩置県や農地解放という
一時の思いつき的な衝動とお題目によって
細切れに分断され
無数の個人のものとなってしまった国土。
それによって無力化されてしまった
公共意識と美意識。
例えば
過去と未来
すなわち歴史とヴィジョンを見つめる事を
なぜか面倒な無駄と感じてしまう
刹那的な現実感覚と
不思議な運命観、死生観がもたらす怠慢。
例えば
おそらくは、漢字を飲み込んだ頃から始まった
意味と感覚とリアリティとを無定見に混同し
情緒的、あるいは構造的な曖昧さと
刻々と移り変わる季節のなかで
また来る春を待つかのように
なぜか好んで思考停止してしまう因習。
例えば
そうではない見方があるのだということを示すのが
アートという行為の存在理由だとすれば
アートそのものを
快楽や道楽におとしめてしまいがちな
優れたものや開かれたもの
そして異質なものに対する嫌悪。
それでいてほんの少し新しいことをよしとする
不思議な身体感覚。
それに乗じて
アートであれ何であれ
大衆が本当に新しい事を見つけ
それに魅力を感じてしまうことをおそれる
既得権益保持者の暗黙の巧妙な圧力によって
なかば習慣化してしまった変化への構造的諦念。
例えば
季節と共に衣を取り換えるように
あるいは汚れた障子を張り替えるように
旬の食べものの目新しさで
過ぎたことを忘れさせようとするかのように
見飽きた顔を取り換えさえすれば
何かを変えたとして済ませてきた治世者と
なんとなくそれを呑み込んできてしまった
この国の民の妙に寛容なメンタリティ。
などなど
もちろんそれらのすべてに
功罪ともいうべき二面性がなくはない。
それによって培われてきた
文化的な独自性のようなものもなくはない。
あるいは何事もないときには、そこには
ぬるま湯に浸かるような快適さがなくはない。
しかし
ひとたび危機的な何かが起きたときには
それらのすべてがからまりあって
ネガティヴスパイラルが極限にまで進行する。
第二次大戦であれ
国策としての原発であれ。
それでなくとも
平時においても静かにこの国をむしばみ続ける
税金を投入して構築したはずインフラの
独占企業へ委譲と
それと同時に複合的に構築された
膨大な既得権益。
それらに象徴される複雑怪奇な仕組み。
水と光と風と
それが培った緑と土のうえの
奇跡の生態系が無数の命を育む奇跡の星の
その豊かさと美しさの
エッセンスのような場所のうえにできた
日本という国の慢性化した病理。
一体全体そのどこに風穴を開ければ良いのか。
あるいは開けうるのか。
どこから手を付ければ
そうではない明日と社会の形が見えるるのか。
八百万の神々に象徴される文化的土壌を
どこかに持つにもかかわらず
和魂洋才の詭弁のもとに
一神教的な文化文明がつくり出した
国民国家や民主主義という方便を無前提に取り入れ
それを素直に信奉するかに見えながら
その実、素知らぬ顔でそれすら無視する
不見識極まるマルチスタンダード
というより、経済の名のもとに
人の心と自然と希望を使い捨ててきた不実。
この国は今
自らを育ててくれた
類いまれな自然とその奇跡的な条件の
その一つ一つの貴重さを噛みしめながら
これまでどこも生み出しえなかった
少なくとも
過酷な一神教の国々が決してつくりえない
人間と自然とが一体となった
豊かさと美しさを持つ社会を
それを体現するためのヴィジョンとシステムを
創りだすべき時にある。
そうしなければ、豊饒な富を
浪費しつくして死を待つ放蕩息子のように
失ってしまった過去を悔いながら
消滅しかねない瀬戸際に立たされている。
地震は無くせないが
すくなくとも原発は無くせる。
そう決断することによって
自ずと見えてくる
豊かさと美しさのかたちがある。