原発は近代という時代が産出した
巨大な欠陥商品であり
すでに時代遅れの産物というほかない。
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近代という時代は大ざっぱに言えば
国民国家、産業化社会、科学という
三つの巨大な幻想の柱に主に支えられてきたが
原発はまるでその三つの幻想の
ネガティブな部分が重なりあって産まれた
ブラックホールのようだ。
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近代を支えてきた幻想の一つである
国民国家という概念は
国の主権は国民にあるという建前を持ちながら
結果的、現実的には
国が富めば国民が富むのだからという理屈のもとに
強力な中央集権構造と
国家間の過剰なパワーゲームを産み出し
いつのまにか致命的なほど
国民と国家の関係の主客の転倒を
進行させてしまった。
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産業化社会は
物質的な豊かさが
人の幸せにつながるという幻想のもと
また企業の利害が
社員や国の利益でもあるという理屈によって
効率化、分業化が
ほとんど人間のキャパシティを越えて
メカニカルに進行すると同時に
貿易では国家間の条件の取り決めに依存しつつ
同時に世界企業が
国家の枠を超えて活動するという
構造的な矛盾を抱えながら
スケールメリットと利潤を求めて肥大化し
もともと社会的な存在である
会社や産業というものの意味を
見失ったばかりか
金融やエネルギーや情報や食料や
企業そのものをも
マネーゲームの対象とする
巨大マネーの暴走によって
産業化社会という概念そのものの
有効性すら喪なわれてしまうなかで
それでもかつての幻想を追い続けている。
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そして科学は
象徴的には19世紀に死んでしまった一神教の神の
絶対的な後継者であるかのように
普遍的真理という幻想のもと
近代という時代を
虹色の光でおおいながら
個別専門分野の突出した研究や開発という
構造的な盲点や
ミクロ的な視野の貧しさから目をそらし
さらには生態系や生命という
地球で命を育む私たちの命や
この星の上で生きていくということの本質と
意味そのものをも無視して暴走し
ついには原水爆や
その関連装置ともいうべき原発をも
私たちの社会の中に作り出してしまった。
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これらの近代を牽引した三つの幻想と
それによって構築されたシステムは
どれもヒューマンスケールを超えた時点から
実はその全てにおいて
自動的に主客転倒が生じるような
構造的矛盾を抱えていた。
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問題はまず
建前や理屈はともかく実際には
国家や官僚システムは一市民より強く
企業経営者は一社員より強く
科学者や専門家は素人より
優れているとされる構造的現実にあり
近代の幻想の三重奏のなかで
国民より国、社員より会社、働きより手順や仕組
一般の人々の等身大のまっとうな感覚より
複雑怪奇な理論の正当化が優先されるという
絶望的なほどの主客の転倒が
進行してしまうことだ。
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ましてや
主役が金であるばかりか
発展し拡大続けるという至上命題と
システムとしての本能を持つ資本主義は
国策と一体になることによって
大国の国家利益や
世界経済を回すためという理屈のもとに
膨大な無駄(余剰)を
世界中で生産し続けてきた。
その最たる物が核爆弾を含む武器と
原発である。
これらのブラックホールの中に
金を吸い込ませることで
資本主義を稼働させ続ける
ポンプのような役割をさせてきた。
こうしたシステムバグともいうべき
構造的矛盾を抱えたまま
アメリカは戦争を繰り返して
しばしば不良在庫を一掃し
先進国は原発を
巨大な商品と化してきた。
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私たちの国でも
見ざる言わざる聞かざるを決め込んできた電力会社は
この危機に及んで今
すべては予想できたにもかかわらず
確かな根拠に基づく指摘もあったにもかかわらず
すべては予想できたにもかかわらず
確かな根拠に基づく指摘もあったにもかかわらず
想定外という言葉を理由に
すべての責任と義務を国に転嫁し
国もまた
国策によって原発を推進してきたという
その歴史を検証することも
その非を認めて方向転換することもなく
電力会社と国との関係や
責任の所在を曖昧にしたまま
専門家と称する連中の意見を
恣意的に伝えることで
すべてを曖昧にし続けている。
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国家的危機にある今こそ
政府と立法機関である国会は
一刻も早く事態の収拾のために
あらゆる方策と手段を
講じなければならないはずだが
逆に核心的対応から逃げて
コップの中の権力闘争に明け暮れている。
多くの自称科学者や専門家たちもまた
この危機的な事態さえ
まるで一つの実験的事象であるかのような
当事者意識を欠いた虚ろな言説を振りまくか
ただおろおろとするばかり。
この危険極まるたらい回しのような
棄民的なネガティヴスパイラルの中で
深刻な事態だけが進行していく。
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原発が近代最大の欠陥商品だという理由は
すでに述べてきたことに加えて
そもそも商品というものは
経済活動というものが始まって以来
原価に経費や利益を乗せたところに価格がある
という原則をはなから逸脱している点にある。
ひとたび事故を起こせば
国土を実質的に消滅させかねない暴力的な装置は
もともとコストも保証もはじきえないが
それに加えて
使用済み核燃料という
電気というエネルギー変換をした後の商品の
生産に伴う副産物を処理する
方法も手段もそのコストも無視しており
全く商品とその生産の体をなしていない。
電気そのものは通常の商品だが
原発の場合
それをつくり出す装置そのものが
資本主義の原理すら逸脱した
致命的な欠陥商品なのだ。
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三つの幻想が重なり合う暗部で
国家と産業と科学の
不健康な思惑と利権と思考停止が
複雑に絡みあいながらつくられてきた原発は
国家の後ろ盾を持つ独占民間企業という
奇妙な構造に支えられ
自らが欠陥商品であるという
本質的矛盾を隠ぺいしながら
電気というリアルな商品を生産し
電力会社はそれを
独占的に販売し続けてきた。
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原発が時代遅れの装置だという意味は
三つの幻想が
巨大な、地球的な矛盾を明らかに露呈し始めた
1960年代以降もなお
また企業が世界化する中で
企業や経済の仕組みやスケールそのものが
国民国家という概念そのものを
遥かに超えてしまってもなお
さらには地球の生態系が
人間にとって奇跡的にもたらされた
生命的環境であり
近代の未熟で暴力的なテクノロジーが
その繊細な仕組みに
致命的な(あくまで人間にとって)ダメージを
与える危険性があることが明らかになってもなお
まるで近代の幻想を追い続けるかのように
生産し続けられているという点にある。
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近代という未熟なシステムの
最大の欠陥は
効率というお題目のもと
すべてが単純化された目的のもとに
細分化され部品化され数値化され分業化され
個別の利害計算に終始するなかで
全体を見通す仕組みを
構造的に排除してしまう点にある。
そこでは国家や企業や社会が
もともとは
人間のためにあるという原則は忘れられ
スケールアウトという限界の存在に
ほとんど無自覚なまま暴走するという
危険を常にはらんでいる。
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誰もが危険を知りつつ
それを放置してきてしまったという
無念を抱える私たちは今
一人一人がこの深刻な現実の中にいる。
そして深刻さはすでに
原発事故の被害者に心を寄せるという次元や
すべては自分たちの国が
やってきたことだからと諦めて済む次元を
遥かに超えてしまっている。
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たとえば、もし万が一にも
高濃度の汚染水を大海に放出させてしまったら
私たちは
原爆による悲惨を経験した唯一の国でありながら
21世紀の初頭に放射能で
自国と自国の国民を
自らが危機に陥れたばかりか
地球を致命的なまでに汚染した国という歴史と
その国民の一人であるという
無残と重荷を
背負うことになりかねない。
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くりかえすが、私たちの国は今
ここにある危険を回避する手だてを
国が総力をあげて講じるとともに
一刻も早くすべての原発を停止させ
そのうえで
近代の未熟な次元の方法論を超えた
人間と人間の健康で美しい営みのための
新たな仕組みを創り出すべき瀬戸際にいる。
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そのためにもまず
近代がつくり出した最大の欠陥商品であり
時代遅れも甚だしい原発という
すべてにおいて暴力的な怪物を
一刻も早く私たちの国から
そして地球上から消滅させなければならない。